2011.04.13 marionnettezero
哲学するエンジニア marionnettezero です。
サービス、其れは哲学である。と言い切ってしまいそうな今日この頃。
皆様、いかがお過ごしでしょうか?
地震もなかなか収まらず、震度6でも余震な日々ですが「がんばれ日本!」を合言葉に頑張りましょう!
さて、本日のタイトルにある「普通」、皆様どういうふうに普段使われておりますか?
○○するのは、それ「普通」ですよね?
○○って「普通」の事でしょ?
のように、さも当たり前であるかのように使われていないでしょうか?
今回は、その当たり前であるかのような事を哲学してみましょう。
我々が普段使っている「普通」という言葉は、おそらく、一般的には、自分的には、
という意味合いが強く、「特別」という言葉もまた、一般的には、自分的には、
という「主観的視点」で利用されているのが多いのではないでしょうか。
そして、この一般的という括りもまた、自分的には一般的であるという「主観的視点」から来ているものと考えられます。
次にタイトルにあります「特別」ですが、これもまた、自分的にはという意味合いが強く「主観的視点」で使われています。
ここで、「普通」の時の「主観的視点」と「特別」の時の「主観的視点」を例で見てみましょう。
例:
1.Aさんが見ているBという事象は「普通」である。
2.Cさんが見ているBという事象は「特別」である。
既に気づいた方もいるかと思いますが、そうです、同じ事象を見ているのにもかかわらず、「普通」な場合と「特別」な場合が存在しているのです。
「主観的視点」で見ている場合には、さも当たり前である「普通」も異なる視点になった場合には、それは「特別」な事であったりするのです。
これは、通常、我々が「主観的視点」で物事を判断してしまいがちな故に発生してしまう事象なのです。
もし、その事象を「普通」であると見る「主観的視点」以外に、「特別」であると見れる「客観的視点」があれば、その事象への対応も違うのかもしれません。
世阿弥の「花鏡」のなかに「離見の見」という言葉があります。
『観客の見る役者の演技は、離見(客観的に見られた自分の姿)である。「離見の見」、すなわち離見を自分自身で見ることが必要であり、自分の見る目が観客の見る目と一致することが重要である』
と、世阿弥は述べています。
即ち、人の上に立つ人間は、「主観的視点」のみから事象を判断するだけでなく、「客観的視点」からの判断もまた必要であるという事です。